
大学の山岳部に所属していた僕は、夏の合宿でとある山に登った。
メンバーは5人。標高はさほど高くなく、慣れていれば日帰りできるレベルの山だった。
その日は天気もよく、順調に登頂した。問題は下山中だった。
途中、一人の部員・カワグチが「ちょっとトイレ」と言って、道から外れた。しばらくしても戻ってこない。
声をかけても返事がない。最初は冗談かと思ったが、5分、10分経っても帰ってこない。
仕方なく、僕ともう一人で探しに行くことにした。
すると、少し下った沢のあたりで、背中を向けて立っているカワグチを見つけた。
「おい、なにやってんだよ!」と声をかけると、カワグチはゆっくりとこちらを振り向いた。
でも、何かが変だった。
顔に、生気がない。口だけが笑っていて、目は虚ろ。
そして、口を開いた。
「おまえらも、見ただろ?」
「なにを?」
「山の中にいたやつだよ。さっき、登頂したときの…」
そんなことはなかった。僕らは何も見ていない。
でも、カワグチは「声が聞こえる」「帰らせてくれない」とつぶやきながら、その場で震えていた。
慌ててみんなのもとに戻り、なんとか全員で下山した。
宿に戻ってもカワグチの様子はおかしく、「あいつがついてくる」とうわ言のように繰り返す。
翌朝、彼はいなかった。
部屋には誰もいないはずの足跡が、窓からベッドまで続いていた。窓は外から開けられていた。
警察も捜索隊も出たが、彼は見つからなかった。
数日後、僕らが登った山の、誰も通らない裏ルートで彼のザックだけが見つかった。
そこには、カワグチの字でこう書かれていたメモが入っていた。
「あいつは声で呼んでくる。聞いたら最後、返事しなくても来る。
おまえらも、絶対に山で名前を呼ばれたら返事するな。」
以来、僕はどんなに軽い登山でも、
山で名前を呼ばれても絶対に返事をしないことにしている。
…たとえ、親しい誰かの声であっても。

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